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本能寺の変から見る、明智光秀の人生

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戦国時代に天下統一を果たしたのは最終的に徳川家康でした。
しかし、戦国時代で天下統一の流れを作ったのは誰かと言えば、間違いなく織田信長でしょう。

 

畿内を制圧し、中国地方、四国地方に進出し、北陸地方、中部地方まで制圧していた織田信長。間違いなく1582年においては最も天下統一に近かった人物でしょう。
この年には武田家も滅ぼしています。まさに敵なしの状態でした。

 

ところがその織田信長の天下統一を阻止することになったのは、奇しくも信長が重用していた明智光秀によってでした。

 

ではそもそも明智光秀はどうして信長を討たねばならなかったのか。
明智光秀は謀反を起こしたものの、結局羽柴秀吉のいわゆる中国大返しという、荒業とも言える軍略の前に敗れ去りました。あまりにも短かった、明智光秀の天下は三日天下などとも言われております。

 

黒幕は足利義昭、朝廷、イエズス会など様々なものがありますが、光秀が謀反に動いた理由はなんだったのでしょうか。現代までに様々な考察が行われていますが、諸説ありハッキリとしたことは分からないままです。

 

明智光秀が謀反を起こした理由を諸説の中から、いくつかピックアップしてみます。

 

 

母親を殺された恨み説

 

比較的有名な説です。
1575年に織田軍は丹波の波多野家に進行を始めました。その丹波進行を任されていたのが明智光秀です。

しかし後に信長が波多野家との約束を破った結果、光秀の母が磔の刑にされて殺されました。

その時の恨みが信長を討つ理由になったというものです。この説は今では割りと信ぴょう性が薄いと言われているようです。

 

将軍足利義昭陰謀説

 

1573年に室町幕府最後の将軍となった15代目の足利義昭が、
実は裏で明智光秀とつながっていて、信長を討ち果たしたという説です。

しかし、この説は考えにくいでしょう。当時、足利義昭は毛利家の元にいましたから、光秀と結託していたなら秀吉の和睦に応じずに、そのまま備中高松城から動けないようにしていたはずです。

 

朝廷あるいはイエズス会が黒幕説

 

陰謀論的な要素が強いのが、この二つでしょうか。信長が将来的に朝廷を廃する動きを取っていた可能性がないとは言い切れませんので、そういった意味ではありかもしれません。イエズス会については、よく分からないですね・・・(笑)。

 

私が考える本能寺の変が起きた理由


ここからは個人的な意見になりますが、私は単に光秀も天下を取りたかった、というのが一番の理由では無いかと思います。

 

母親を見殺しにされた、四国攻めで面目をつぶされたなど、理由は色々これまで考えられてきました。そしてそれらは納得のいく理由となるものです。

 

ただ根幹にあったのは、単純に光秀は天下を信長から奪って、自分がその座につきたかったということではないかと思っています。

 

明確に光秀が天下を狙っていたという根拠はないですが、信長が天下統一ということを成し遂げかけていただけに、それを目の前で見てきた光秀が自分も天下を取りたいと思ったのではないでしょうか。

 

当時は戦国時代と言われることから分かる通り、弱肉強食の世界でだまし討ちや裏切り行為は日常茶飯事でした。

 

光秀がそのように考えても何ら不思議はないでしょう。しかも光秀は優れた武将です。
自分なら天下を取れると考えていたかもしれません。

 

光秀は一般的な歴史の勉強では本能寺の変を起こし、その後あっさりと秀吉に敗れさるイメージが強いですが、信長に重用されていた非常に優秀な武将です。

 

本能寺の変の片が起きた当時、信長配下の優秀な武将たちは、畿内を離れていました。
柴田勝家は北陸にいましたし、滝川一益は中部、秀吉は中国などなど、諸将は遠くにいたのです。

 

そんな中、有力武将のうち畿内にいた、明智光秀は信長を討つチャンスだと捉えたのではないでしょうか。

 

おそらく相当に隙があったのでしょう。逆に言えば信長は隙を生み出すほど、安心しきっていたということがわかります。

 

隙を作った理由は定かではないですが、明智光秀を信用していたからこそ、不意打ちを食らってしまったと考える事もできます。

 

光秀は千載一遇のチャンスだと飛びついたものの、準備はしっかりと出来ていなかったことが見てとれます。

 

自分の娘が嫁いだ先の細川家や比較的関係が良好だった筒井家が、光秀の味方をしてくれませんでした。これは大きな誤算だったと思います。

 

根回しが十分にできていなかったのは明らかです。裏を返せば、それだけ突発的に実行したことと、だからこそ動きが読まれなかった可能性があります。
ですから光秀としても一か八かの賭けのような、行動だったかと思います。

 

光秀は本能寺の変後に、朝廷に接近するなど動きは素早いものでしたが、いかんせん周りがついてきませんでした。

 

ではなぜ周りがついてこなかったか。
それは謀反を起こした大義名分のようなものが、無かったからだと推測されます。

 

謀反後のプランを持ち合わせていなかった、あるいは示せなかったので、周りがついてこないまま、秀吉らの謀反人を討伐するという大義名分の前に敗れ去ったのではないでしょうか。

 

光秀が天下を取れなかったのは、計画性がなかったことと、その後の展開を知らしめることが、できなかったという2つの点からだと思います。
もちろん本能寺の変で信長を討てたのは、計画性がなかったからこそだと言えるでしょう。

 

明智光秀は謀反人のイメージが強いですが、結局彼は武士として勝負をしに行ったのが、本能寺の変ではないでしょうか。大胆な賭けに出た、というのが光秀の人生最期の瞬間だったと私は捉えています。

 

今年は大河ドラマで明智光秀が主役で放送されていますが、この諸説ある中でどのような動機が描かれるのは楽しみです。

今回は以上です。

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