【アドラー心理学】自己肯定と自己受容の違い
あなたはとてもポジティブだ。
と私は周りから言われることが多々あります。
これはもちろん良い意味(前向きであるという意味)で言ってくれていることだと思います。
しかしながら、嫌われる勇気を再読して気づいたのは、自己肯定だけのポジティブは単なる幻想に過ぎないのではないかと思います。
前回の記事では嫌われる勇気、幸せになる勇気をやや批判的に書きましたが、今回は良い意味での新たな気づきとして書いています。
自己肯定と自己受容の違い
まず自己肯定について嫌われる勇気では以下のように定義されています。
できもしないのに「わたしはできる」「わたしは強い」と、自らに暗示をかけること
一方で自己受容については以下のように書かれています。
仮にできないのだとしたら、その「できない自分」をありのままに受け入れ、できるようになるべく、前に進んでいくこと
これを見て思うのは、できるだけ客観的な情報に基づき自己を見つめて、実現可能性が根拠を持って考えられているかどうかに、自己肯定と自己受容の違いがあるように感じます。
例えば私が競馬場に行ったとして、とあるレースに賭けて大敗したとします。
その次のレースを挽回しようとして絶対に勝てると信じてお金をかけるとしたら、それは自己肯定による悪い作用が出ているかもしれません。
他方で競馬で大敗した際に、次のレースでも勝てる保障がないから、次のレースでは賭けずに、アルバイトの日数を増やして買いたかったものを買おうとするとしたら、それは自己受容により判断できていると言えるでしょう。
自己肯定感が高い・低いについて
Googleで自己肯定という言葉を検索すると、大抵上位に自己肯定感が低い人は危険、みたいな記事が量産されていることに気づきます。
その内容はともかく、個人的に腑に落ちないのが自己肯定感が高い・低いという話についてです。自己肯定感が云々と書いてある記事を読むと、自己肯定感を自分に自信があるかどうか、という意味で捉えられることが多いのですが、個人的にはだいぶニュアンスが異なると思います。
嫌われる勇気に書いてある、自己肯定と自己受容の話で言うと、別に自己肯定はなくても自己受容が出来ていれば、自分に対して自信を持つことは十分に可能だと思います。
むしろ、自分の得手不得手、ビジネスの観点で言えば勝てるマーケットか負けるマーケットなのかをより深く理解している自己受容が出来ている状態こそが、自身を生み出すような気さえします。
自己肯定が万能薬のように扱われている記事や書籍も目にしますが、おそらく自分を肯定して常にポジティブにというメッセージの方が本が売れたり、記事が読まれたりするからではないでしょうか。
自己肯定からのポジティブは耳障りの言い響きがあります。他方で現実を見た上で自己受容した方が良いというのは夢がないようにも思えます。そして自己受容はある意味、自分の現実と向き合う必要があるため、簡単な作業ではありません。
ですから自己肯定をよしとする風潮が強いのかなと思います。
自己肯定が必要な場面
では自己肯定が必要な場面が全くないかと言えば、そうも思いません。多くの場面では自己受容をした上でポジティブに考えるのが良いと考えますが、火事場の馬鹿力が必要な場面では自己肯定も必要だと思います。
例えば自分が陸上競技の選手で走り高跳びの選手だとします。今までに自己記録で出したことがない高さが優勝ラインだとした場合に、本番の時に「出したことのない記録だから飛べない」と考えて助走を取る選手はいないと思います。
どちらかと言えば、「自分は飛べる」と考えて助走を取る選手が多いのではないでしょうか。
このような一瞬何かの力が必要な時には自己肯定、自己暗示は効力を発揮しそうな気がします。科学的な調査の結果は知りませんが、少なくともこのように瞬間的な場面では精神的には自己肯定が合った方がプラスに働きそうな印象です。
逆に火事場の馬鹿力が必要な瞬間以外は、ほとんど自己肯定は必要ないのではないかと個人的に思います。
以上となります。
今回は嫌われる勇気を再読して気づいた、良かった発見についてまとめました。
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