【人生】村上春樹の“スプートニクの恋人”から読み解く人間の孤独
私は村上春樹のスプートニクの恋人を大学時代にはじまり何度も何度も読んできました。
とても大好きな作品です。
この小説のテーマを一言で表すと、「孤独」だと私は考えています。
講談社によれば、文庫の後ろに書いてあるあらすじを読むと、“この世のものとは思えないラブ・ストーリー!!”とご丁寧に感嘆符を二つつけて大きく宣伝していますが、私からしたらこれは全く見当はずれなものです。
ただ講談社側からすれば少しでも売り上げを伸ばすために、このような一般受けしそうなあらすじをあえて書いているかもしれないので、ここでは特に言及はしません。
ではなぜこの小説のメインテーマが「孤独」であるのかをこれから読み解いていきたいと思います。
※以下、村上春樹さんのスプートニクの恋人より文章を引用しています
スプートニクとは何か?
まずこの小説のタイトルを見て欲しいと思います。
そうスプートニクの恋人です。
村上春樹の小説というのは長編であれ短編であれ、その物語の中に登場する例えば人物や人名、表現の中にものすごく“意味合い”を含ませていることが多いと感じます。
そしてこのスプートニクの恋人という小説も例外ではないです。
小説をめくって、いきなり物語の前にわざわざ“スプートニク”とは何か、ということについて解説してくれているのです。
これは村上春樹が意図するものをここで、
わざと暗示させているのではないかと思います。
つまり“スプートニク”とは何かを読み解くことが、この小説を理解するにあたって重要であるということは明らかです。
では“スプートニク”とはどういう意味なのでしょうか?
まず小説冒頭に書かれているものを引用すると、一般的な意味での“スプートニク”とは
1957年10月4日、ソヴィエト連邦はカザフ共和国にあるバイコヌール宇宙基地から世界初の人工衛星スプートニク1号を打ち上げた。直径58センチ、重さ83.6kg、地球を96分12秒で一周した。
翌月3日にはライカ犬を乗せたスプートニク2号の打ち上げにも成功。宇宙空間に出た最初の動物となるが、衛星は回収されず、宇宙における生物研究の犠牲となった。
と書いてあります。
次に言語的な意味においての“スプートニク”とはどういう意味かというと、本文のP.151におけるぼくとミュウの会話シーンでミュウは次のように発言しています。
ねえ、あなたはスプートニクというのがロシア語で何を意味するか知っている?それは英語でtraveling companionという意味なのよ。『旅の連れ』。
そして、この物語における“スプートニク”の意味について考えたいと思います。
P.98~99のぼくとすみれの会話には次のように記されています。
「(前略)ときどきとても心細くなるの。枠組みがいっぺんに取り払われてしまったような頼りなさ。引力の絆もなく、真っ暗な宇宙空間の空間をひとりぼっちでながされているような気持。自分がどこに向かっているのかさえわからない」
「迷子になったスプートニクみたいに?」
「そうかもしれない」(以下略)
続いてP.179のミュウがすみれを拒絶した時の以下の文章を見ていただきたいです。
「(前略)わたしにはそのときに理解できたの。わたしたちは素敵な旅の連れであったけれど、結局はそれぞれの軌道を描く孤独な金属の塊に過ぎなかったんだって。遠くから見ると、それは流星のように美しく見える。でも実際のわたしたちは、ひとりずつそこに閉じ込められたまま、どこに行くこともできない囚人のようなものに過ぎない。ふたつの衛星の軌道がたまたまかさなりあうとき、わたしたちはこうして顔を合わせる。あるいは心を触れ合わせることもできるかもしれない。でもそれは束の間のこと。次の瞬間にはわたしたちはまた絶対の孤独のなかにいる。いつか燃え尽きてゼロになってしまうまでね」
この文章では“スプートニク”という単語は出てきませんが、明らかに自分たちを言語的な意味での“スプートニク”である“旅の連れ”という言葉を用いて表し、私たちは“スプートニク”であると述べると同時に“スプートニク”とは「孤独」を意味するものとして解説しています。
おそらく、ここの文章は村上春樹が強く主張したい部分であると私は考えています。
それは先ほども言ったように“スプートニク”という単語が極めて重要な意味を持っていること、そして実はもう一つ決定的な証拠があるのです。
孤独とは人間の普遍的な性質
すみれが失踪した後、自分自身について見つめなおしているぼくが自問自答を繰り返すところの中からP.272~273の以下の文章を見ていただきたいと思います。
どうしてみんなこれほどまで孤独にならなくてはならないのだろう。ぼくはそう思った。どうしてそんなに孤独になる必要があるのだ。これだけ多くの人々がこの世界に生きていて、それぞれに他者の中になにかを求めあっていて、なのになぜ我々はここまで孤絶しなくてはならないのだ。何のために?この惑星は人々の寂寥を滋養として回転をつづけているのか。
ぼくはその平らな岩の上に仰向けになって空を見上げ、今も地球の軌道をまわりつづけているはずの多くの人工衛星のことを考えた。(中略)ぼくは眼を閉じ、耳を澄ませ、地球の引力を唯ひとつの絆として天空を通過しつづけているスプートニクの末裔たちのことを思った。彼らは孤独な金属な塊として、さえぎるものもない宇宙の暗黒の中でふとめぐり会い、すれ違い、そして永遠に別れていくのだ。かわす言葉もなく、結ぶ約束もなく。
ここで“みんな”という言葉を用いることで、「孤独」とは人間の普遍的な性質であると村上春樹は主張していると捉えることができます。
そしてここでの“スプートニクの末裔”とは、我々のことを言っているのは自明でしょう。
以上の解釈を元に私が思う村上春樹の孤独論をここで展開させて頂きます。
村上春樹の孤独論
①
我々はある他者に対しては何かを求めているのも関わらず、
ある他者に対しては非常に無関心であり他者の痛みも考えずにいて、
お互いがお互いを同じ様に求めている事は稀である。
故に我々は孤独にならざるを得ない。
これが村上春樹の孤独論の肝でしょう。
他人に対する無関心さ、ということに関してこの折に少しふれておきましょう。
この物語には多くの自分にしか関心のないエゴイストが登場します。
例えばぼく。
ぼくは相手の家庭環境、特に教え子でもある息子のことを気にも留めずに何食わぬ顔で、その母親と不倫をしていました。
この物語の終盤でその教え子である“にんじん”が万引きをして捕まるというシーンがありますが、この事件を起こすきっかけを作ったのは実は“ぼく”にあるのではないかと私は考えています。
どういうことかと言うと、にんじんは万引きを繰り返していましたが、
その万引きの対象はなぜかずっとホッチキスでした。
なぜホッチキスなのかというのは文中では語られていないですし、
ホッチキスである必然性を理解するのは難しいでしょう。
がしかし逆に考えてみれば、むしろ意味がないのはおかしくないのです。
そもそもこのにんじんの万引きというのは、
ぼくと母に対する自分が何か問題を抱えているという、
ある種のサインであったのではないでしょうか。
だから物欲しさに万引きを繰り返していたわけではないのです。
盗むものがホッチキスであろうがなんだろうが構わないのです。
そしてこの万引き事件の最後ににんじんの母親が実は息子は不倫に気付いていたのでは、と疑うシーンがあるが私はその通りであると思います。
近くにいながら、なおかつ自分たちによって生まれたと思われる問題に対して無関心であったか、あるいは気付いていないふりをしていたこの二人の存在は、
現代の日本に生きる、我々に対する村上春樹の批判ではないかと思います。
この他人に対する無関心さあるいは気付いていないふりというのは、
世界の終りとハードボイルド・ワンダーランドの人間とやみくろの関係性からも見てとれるように、村上春樹が繰り返し主張していることでもあります。
そしてこの人に対する無関心さ、つまり孤絶することで、
我々は孤独を逆に補強しているのです。
再び村上春樹の孤独論に戻りましょう。
先ほどの続きで2つ目のポイントになります。
②
我々は他者を理解していると思っていても実は理解できていないこともある。
そして自分の期待あるいは理想に反する“現実”を突きつけられた時、
受け入れられずに“現実”から目を背ける。
“現実”から逃げた我々は実現不可能であるが、自分に都合のいい“夢”の世界を妄想する。
あたかもそれが僅かには可能性があるように信じて孤独に生きているのである。
我々は同じ地球上で生きているのだから、
少しくらいはお互いの距離を縮められるのではないだろうか、
そう信じながら生きている。
以上が私の思う、村上春樹の孤独論とスプートニクの恋人の解説です。
スプートニクの恋人の感想
最後にこの本を読んでの感想を少し書きます。
私は初めてこの本を読んだ時は、
正直ここまで深い意味が込められている作品であるとは感じませんでした。
物語を通して謎がものすごく散りばめられているとは感じましたが、
それが何を表しているのかは理解できませんでした。
しかし、この本を再読した時に謎と謎が実は深いところで関連していたことがわかり、
段々とこの本に対する理解ができるようになっていきました。
そして今では偉大な作品であると思っています。
なぜなら自分自身を見つめなおす機会を与えてくれる稀有な作品だからです。
もちろん今回私が感じ取った孤独論も、
単なる一つの見方でしかなく、インターネットを探しても色々な捉え方があります。
それだけ色々な要素が詰まっている名作であると改めて感じました。
確かにエンターテイメント性では私自身も大好きである、宮部みゆきや東野圭吾などの売れっ子ミステリー作家と比べると見劣りするところがあるかもしれないです。
しかし、村上春樹の作品にはそういった作品とは違ったベクトルがあり、良さがあります。
また村上春樹は人間と社会を非常によく観察しているな、と感じました。
それは著作の一つである、アンダーグラウンドのあとがきを読んで更にそう感じるようになりました。
それに加えて小説を通して言いたいこと、これがかなり一貫性を持って感じられます。
村上春樹の主張したい事の全てが納得感のあるものではないですが、
このような、ある種の頑固な作家は現代ではあまりいないでしょう。
繰り返しになりますが、人間の孤独に触れているスプートニクの恋人は、
改めてハッとすることも多く、傑出した作品だと感じました。
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